昨日の歓迎会の前、実は先々週師匠の送別会があった。
師匠は60歳、定年とは言っても再雇用でまだ働くのだが、今とは違う部署で働くことになる。
支店に配属されてから3ヶ月、ほとんど師匠に同行し今の仕事についてのイロハを学ばせてもらった。
師匠は非常に穏やかな人。
目立つような行動や仕事に対するアピールは感じられないけど、淡々と、でも着実に仕事をこなしてきたのが、携わってきたお客様と接することで良く分かる。
師匠は定年ということで60歳なのだけれど、何か役職が何か付くわけではなく、最後まで現場の第一線で仕事をしてきた人。
世間の一般的な見方をすれば、多少大きな会社で「定年になるのに管理職でなく現場で働く人=出世の出来なかった人」ということになるのだろう。
断っておくけど、決して「出世しない人=頑張らない人」と決めつけてるわけじゃない。
ただ世間一般的に出世している人、社会的地位のある人、何かを成し遂げた人、なんて人たちは「頑張った人・努力した人」というイメージだ。
じゃあ「頑張る」って何なんだろう?
僕は「頑張る」にも2種類あると思っている。
好きな事をしている時の「無意識の頑張り」とそうでない時の「意識した頑張り」
「無意識の頑張り」
みんな経験があるでしょ。
自分が好きな事に没頭している時は時間が経つのが凄く早くて、気付いたらこんな時間、気付いたら朝だった、みたいな。
でもね、こういう頑張りは意外と自分では「頑張った!」なんて思っていない、だって好きな事をやっているんだから。
だから厳密に言えは頑張りでも努力でもないのかもしれない。
対して「意識した頑張り」
これも経験有るはず。
「好きじゃないこと」をやる時だ。
こんな時は当然手を抜きたくなる、消極的になる。
でも仕事だから期日に間に合わせなきゃいけなかったり、ノルマやら上司の顔色をうかがったりしなきゃいけなかったりと止む負えず嫌々やる場合がほとんどだ。
だから意識して頑張らなきゃいけなくなる、努力しなきゃいけなくなる。
でもそこには、どうしても無理が出てくる。
そりゃ、たまには無理してでも頑張らなきゃ行けない時もある。
でも、常に「意識した頑張り」で築いた先には、どこか歪みが生じて破綻してしまうんじゃないかなと思う。
そんなだったら「頑張らない生き方」も有りかな、なんて。
ただ、「頑張らない生き方=無気力な生き方」ってことじゃないよ。
例えば自分がこうしたい、こうなりたいって時に本気で思っていれば、それは自分が思う方向への好きな行動として「無意識な頑張り」になってくると思うんだ。
そうじゃない場合。
「いつか、いつか」
「そのうち」
「やれば出来る」
なんて考えで動き出さないでいる場合、それは本気で動き出そうと思っていないと言うことだ。
でも、別に悪いことじゃない、そういう時は本当に「今は動く」時ではないのだ。
いつか本当に変わろうと思った時、それは「いつか」じゃなくて、今「まずやってみるか」になる。
それは何時なのか?
きっと分からないと思う。
意識するものじゃなく「いつの間にか」って感じなんだろうな。
自分はそうだった。
って負け惜しみなのかな?
でも僕はこれからも「意識した頑張り」は止めて「頑張らない生き方」を実践していこうと思う。
頑張らない生き方・・・負け惜しみ?

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